49日法要、そして共同塚へ埋葬
7月29日(日)、中野区の哲学堂動物霊園で
ブラッキーの49日の法要をすませ、骨を共同墓地に埋葬しました。
あいにく天気予報があたり、午後はひどい雷雨。
出かけるときは車のワイパーも役に立たないほどの横殴りの雨でした。
そういえば、元気だった頃、雷がとても苦手だったブラッキー。
散歩の途中で雷が鳴るやいなや、いくら「大丈夫だよー」と叫んでも
一目散に家を目指して駆け出すほど。
「雷が鳴れば、出かけなくてすむからって、ブラッキーがそう思って雷を連れてきたのかも」
キッチンでつぶやいた家内。その声を背中で聞いた僕は
思わず骨壷に向かって「だめ!」と叱責。
「法要が終わって霊園に埋葬するときは、きっと晴れるから」
なんの根拠もなかったけれど、物事に流れがあるとすれば
ブラッキーの骨の埋葬は、何事にも誰にも邪魔されないはず。
そう信じてハンドルを握っているうち、だんだんと小雨模様になり、
法要が始まる頃にはすっかり晴れていました。
中学生の頃からブラッキーを散歩に連れて行ってくれていた近所のカナちゃんと3人で、
扇風機しかないお寺の本堂に座して、ありがたいお経と、心に沁みる住職さんの心優しい説法。
「因果関係は、世の中の摂理。原因があり、それに対する結果がある。
すなわち始まりがあれば、必ず終わりがあるということです。
ときには、人間、思ってもみない結果を経験することもある。
それは、何故かというと、原因と結果の間に、
人は縁というものに影響されて生きているからです」
そんな説法を聞いているうちに、僕はブラッキーと暮らし始めた15年前に、
こんな風に終わりが来るとは、ゆめゆめ考えていなかったと痛感しました。
そして、始まりと終わりの間、つまり一緒に過ごした15年と5ヶ月の間に
数え切れない縁が僕らに訪れ、何度も笑って、何度も涙して、喜怒哀楽をぜーんぶ咀嚼して
それらは全て、この終わりの瞬間をきちんと迎えるために
経験しなきゃいけない出来事だったのかもしれない、そんな風に考えました。
今、辛いのは、ここにブラッキーがいないからではなく
悲しいのは、もう、ブラッキーになにもしてやれないからではなく
淋しいのは、ブラッキーと呼んでも返事がないからではなく
ただただ、これから二度とブラッキーと一緒に楽しい時間を探すことができないコト。
合掌した手のひらに大粒の汗と涙がボロボロと滝のように落ちてきて
どうしようもなく情けない自分に自問自答した時間でした。
そして、法要が終わって夕暮れ。
共同の埋葬塚にブラッキーの骨を手放しました。
骨壷をひっくり返して何度も何度も壷の底についていた骨の粉を手ですくって塚に入れて、
天国では、けして体が不自由になることがないよう、ブラッキーのすべてを共同塚に埋葬しました。
実際の49日が8月11日。それまでに、死ぬという意味や理由、そして現実を
僕は、ゆっくりと対座して受け入れようと思います。
ブラッキーが天国へむかって走り出した今、
もう、僕も歩きださなきゃ。